ほんとうに映った!監死カメラ2 / 覗き合いのデスマッチ

a01e300

巷にあふれる監視カメラ。それは時には”死”を見続ける監死カメラとなる

監視カメラに映った恐怖の心霊・怪奇映像のみで構成したコンセプト・ホラー・ドキュメント

簡単に(ネタバレ気味)コメントしておきます。無粋な疑問点は省略してます。

①コンビニ

コンビニ、バックヤードにて設置された監視カメラの映像。「首の異変」という視覚的には異常な現象がそのコンビニ内で連鎖していくという、完全に呪われたコンビニでの怪異エピソード。ネタの「後だし」という意味で、ナレーションのやり口がやはりこのシリーズは上手いなと思わされる。〈タイムコード〉の挿入は話全体に不可解なオーラを漂わせる。


 

②お迎え

監視カメラは通常、「犯罪の防止」、つまり「事件の解決を目的に設置されるもの」であり、昨今では機器自体の普及により使用の目的が多様化されているとここで一度「監視カメラ」の一般的な事柄が語られる。本編の内容は、「遠隔介護」というあまり耳に憶えが無い「監視カメラ」の題材を用いており、録画されたものは「老人が安眠している映像」では無く、「老人が息を引き取る瞬間」を捉えたものであるという。コンセプトである「”死”を見続ける監死カメラ」に、なんともうってつけのストーリーでは無いか。霊的物質?魂?、そんなものをカメラはまざまざとフィルムに焼き付けてしまいながら、切り忘れたそれは、「遠隔介護」の深淵をも凝視する。今日的な社会問題である介護疲れからの「虐待」を「誰も視てない筈の場所」で、こうして晒し首にする「監視カメラ」の潔癖さよ。


 

③見えない何か

あるマンションのエントランスに設置された「映像に変化が現れると記録される」センサー付きの監視カメラ映像。逢魔時に集中されて記録される摩訶不思議な現象であるが、色々と絵面が呆気ない。「急に態度を変える」マンションの管理人というキャラクターも食傷。


 

④白いあれ

盗難事件が多い畑に設置されたという監視カメラの映像。「畑からリンゴを盗んだ少年2人が逮捕される」というニュースに、白いあれは映るのだが、脈絡無く冒頭で流れた、おそらく携帯電話で撮影された手振れ映像や、土地周辺の住人たちへの取材映像、「監視カメラの映像を局に売り捌いた」という映像所有者の行動などのリアリティを醸成するファクターが実に、この全体の構造を「モキュメンタリー」たらしめている。映る現象自体も、背景の犯罪自体もてんで何てコト無いのに、それが妙に引っ掛かってくるのだ。


 

⑤駐車場

成人用のDVDを販売している自動販売機前に設置された監視カメラの映像。「影on影」の同化しゆく不穏な様はかなり好きなのだけれど、やるならやるで、クラッシュまで私は視たいね。


 

⑥死のノイズ

「ノイズニカオガウツッテイル」と書かれ、そこに添付された映像が、とある会社から送られてくる話。話の末路が土地的なものに収拾していきつつ、不在の人物である「高村氏」の不可解さがリフレインする異物感は良い。①コンビニのような負の連鎖でもあるけれど、画の面白さは(ギャグとしてでも)①に軍配。


 

⑦インターホン

これはGood….。インターホンに録画された映像という陳腐な導入だが、エントランスを覗くカメラと玄関先のカメラの絵巻はいわゆる心霊の「接近系」をやるにあたっては、もう間違い無いでしょう。覗きのプロである「ストーカー」の生霊は、あらゆる壁をすり抜けてしまい、ここまで執拗に近づいてくるのだという、誰もが解る単純明快な恐怖。年齢も性別も関係無く、身が凍るよ。しかも、「投稿者」兼「被害者」の消息がその後、途絶えてしまった、とスタッフが知った頃、私たちはあの生霊が、どこまで接近したかを想像して戦慄する。逃げ場の無さ、不条理過ぎる、ヤバ過ぎる。

ほんとうに映った!監死カメラ / 俺だけが視ていた

Baidu IME_2016-3-18_16-22-1

巷にあふれる監視カメラ。それは時には”死”を見続ける監死カメラとなる
監視カメラに映った恐怖の心霊・怪奇映像のみで構成したコンセプト・ホラー・ドキュメント

簡単に(ネタバレ気味)コメントしておきます。無粋な疑問点は省略してます。

①交差点

一発目から入手しにくそうな…スクランブル交差点に設置された監視カメラ映像。「画面中央から目をそらさないで欲しい」などと注視させ、「音に集中して頂きたい」などと静聴させる、その誘導の二段落ちを、ナレーションでいかに見せるかという意気揚々の姿が現れていて、デビュー作ではまずまず。”今日あなたとすれ違った人がこの世の者かどうかなど、本当にあなたには分かりますか?” に、現世と異界が交差する世界観を一発で作り上げる。


 

②タクシー

フロント向きとリア向きのドライブレコーダーのスプリットスクリーン/モンタージュによる監視カメラ映像。白いコートの女性が道路脇に立っているハリボテ感は扨置き、この短編はやけに心配になるものがある。タクシーの扉が開いた瞬間、から閉じるまでの、その間に彼女を乗せていないという保証が無いところに(それに関しては制作側が触れていないところに)心配になるものがある。今も尚、霊を乗せているかも知れないタクシー、それに、誰も気づいていないのかもしれないということ。


 

③バー

とある事件が起きたバーの監視カメラ映像。②と同じくアングルを変えた画面構成で魅せるのだけれど、何となくこの辺で、監視カメラをモチーフにするこのシリーズのひとつの基本的な方法論が見えてくる。多視点を設え、(こちらにはこう映っている/こちらには映っていないと)スイッチを行い、物語を推進・駆動させる作り。”監視カメラ(固定されたフレーム)だからこそ捉えられた”ことを重用視していることは忘れてはならない。「リプレイ」になる前にどうにかして「見っけ!」してやると意気込むも、こんな初歩的なものを見破れなかったのでちょっと凹んだ。


 

④ゴミ捨て場

マナー違反が多いために設置されたゴミ捨て場前の監視カメラ映像。山積しているゴミの中から現れる手は流石に淡白な映像。箸休め。


 

⑤エレベーター

今度は画面が4分割されているマンションの監視カメラ映像。③で記述した方法論がここでも守られており、「エレベーター」の内部/外部を映す視点、階層に別れて設えられた監視カメラのモンタージュが、このシリーズの主題に相応し過ぎる動きをしている。取材パートで、さらりとオーブが映っているのがじわるが、人影の配置がもうそこしかないだろうという正解でにやりとする。曰く付きマンションとエレベーターによる上下運動の親和性はもう計り知れない。


 

⑥地下道

⑤と同じく4分割されている地下道の監視カメラ映像。変質者を取り締まる為のものだとか何とかで、変質者よりもっと異質なものがというニュアンス。「影」系のインパクトの欠如を打開できていないので微妙。途中、映像中に自転車を乗る人が映り込むのだけれど、その後の取材パートで「自転車は降りろ」云々の立て看板をがっちり捉えたカットを挿入する捻くれた性格はかなり好き。


 

⑦コインランドリー

仰角に設えられたコインランドリー内部の監視カメラ映像。センス良いなーと思ったのは、部屋を照らす照明に、外部の道路を通り過ぎる車のヘッドライトが用いられているところ。問題の背景は現実にありそうな話で(というか確か、在った筈なので)薄気味悪い。


 

⑧商店

⑤、⑥同様に4画面に分割されている商店内部の監視カメラ映像。方法論も順当。特筆すべきは、ここに映るポルターガイストがどうこうというより、その因果関係である、人物の、人生の、背徳的なそれだろう。途絶えたある人物の来店とその時間軸からの推測、そして取材パートで明らかになる商店外部(隣接した空間)との関連性が語られてから、視点のスイッチに映り込む影と種明かしのクローズアップが意表をついてくる。


 

⑨踏切

隈無く探してもよく解らなくて、ナレーションとリプレイでそれが種明かしされる時、思いも寄らぬというか、忘れがちな点を指摘されると、単純に感心しながら瞠目する。映ってしまうこの世の者では無い者の見分け方はこうだ!と指し示す教科書的な短編。心霊通ほど見逃す描写なのでは。

残穢-住んではいけない部屋- / 気づいたやつが居なくなる

Baidu IME_2016-3-5_18-52-16

息継ぎの無い序盤、久保さん(橋本愛)の部屋での沈黙のワンシーンで思わず窒息しそうになるも、それ以降、大きく固唾を呑むシーンがこれといって思い返せ無い。押し殺した全体像・キャラ造形は素直に素敵だと思うが、シンプルな恐怖描写に関しては、持続的な動悸には繋がらず、至らずというところで、期待値からは下回った印象。(霊体の操作に顕著な)さんざん使い回されているJホラーの文法に頼りだすところも、ちょっと飽き飽きする。ただ、誰が視ているのか判別できない視点カットの連なりには、意匠が見え隠れしていて、これは映画の美点。他、隣人の主婦が扉から顔を出すカット、そこに実は隠れている子供という一連とか、首吊りに丁度適している様にも見える久保さんが座っていたスツールを、深く捉えるカットなど、不実で妙な断片の鏤め方が、いい具合に引っ掛かってきて(イメージの連鎖として)愉しい。中でも、『ほん呪』を脳裏に掠める、あるフラッシュの演出(による表出)が白眉。物語に関しては、過去・歴史を遡行していく、階層構造である物語を成立させるが故の(原作への考慮を払う)丁重過ぎる足取りと、射程距離の広いJホラーを見据える解って欲しげな記号・イメージ表現、そして、ディテールへの無駄な心配性が、妙に推理性を欠きながら進行していくので、ミステリアスを醸成するドラマとしての愉しさは、根本的に特筆することは余り無いけれども(そもそもそちらには、比重は置いていないだろう)、残穢による不条理に収斂する物語の属性は、『鬼談百景』を継承して同様、その怪談たる怪談の、宙吊りの厭らしさこそに真価が現われるからして、視覚的・聴覚的に訴えていた伏線の回収から傾れ込む、あのエンドクレジットは、「驚き」というか「怖さ」を呼び起こす/「何も終わっていない」ことを告げる、禍々しい一撃であったのでは。そこで欲を言うならば、(過去の語りのシーンのような)肌理の粗いズームアップで、是非にもあれは視たかったところではありますが。取り敢えずは、触穢を巡る、一定周期で公開される伝播系ホラー映画の中でも、(人に話を聞いて回る・喋り回るだけの)至極地味なカテゴリだけれど、動き回ることで不幸になる範囲が広くなっていくという、知らず知らずの道連れの(メタ的にも効果を現す)罪深さが後味悪くて、客電が灯ると同時に笑みが何だか引き攣る映画です(しかも、松竹映画のハッピーエンドの法則を上映前にしれっと流しておきながらという罪深さもある)。

鬼談百景 / 誰かが囁くものがたり

2016 1.30(土)に全国公開された『残穢【ざんえ】-住んではいけない部屋‐』の原作者・小野不由美が初めて手掛けた百物語怪談「鬼談百景」の映像化にあたる本短篇集(全10本)。

Baidu IME_2016-1-6_5-4-38

オフィシャルサイト

「鬼談百景」は、99話で構成された怪談集。「予告犯」の中村義洋が映画化した小野の小説「残穢」が100話目と言われており、この2つの作品はリンクしている。

とのことであり、しかも、『ほん怖』の中村義洋(なかむら よしひろ)、『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!』シリーズの白石晃士(しらいし こうじ)、『バイロケーション』の安里麻里(あさと まり)、『心霊玉手匣』シリーズの岩澤宏樹(いわさわ ひろき)、『へんげ』の大畑創(おおはた はじめ)、『先生を流産させる会』の内藤瑛亮(ないとう えいすけ)がメガホンを取っているという、その布陣の素晴らしさに感服であります。「Jホラー」の現行メインストリームで考えられる、最良の布陣なのでは。名前を聞くだけで暗い愉悦が疼く訳でありますが、これはもう、要必見かと思われ、12月から先行配信されたものをすかさずチェックしてまいりました。以下、ネタバレ感想。

昔からこの国では、一夜のうちに百の怪談を語り合うと、本物の怪異が現れるとされる ここにお見せするのは、ミステリー作家の私のもとに読者から投稿された怪談話である


 

1.『追い越し』(中村義洋)

Baidu IME_2016-1-6_5-35-50

上手い、設定が。夜な夜なドライブついでに”遊び半分”で霊が出現するという噂がある踏切や峠、廃屋に霊や怪異を探し回ったりする若者4人組が、何時も通りにさも何かに出会ったかのように話し出す、その場を盛り上げる為だけの話に「ちょ~怖いんですけど~」と花を咲かせていると、「しょうがない、こっちも遊び半分で脅かしてやるか、お前らの希望通りに」といった最高の面持ちで、彼らの現前に霊が出現するのが面白くて上手い。カットが使い回されていて、それがちょっと雑だなぁというマイナスポイントがあるけれど、車内を映すカットでは外界とのシャットダウンが闇に覆われた窓で演出されており、更に車外を映すカットではヘッドライトと街頭という最小限の光源で霊との一連を照らし出しているのも味噌である。陳腐な画の連続にならないようなロング・ショットの工夫もばっちりだ。あの不自然な霊の動きはどうしてもギャグ感を強めるけれども、暗示的な隧道を抜けた以降に襲いかかるそれへの役者のリアクションもよい。ついでに言っておくと、助手席に座っていた白のタートルネックを着用した彼女が可愛いのもよい。これは大画面用でしょう。


 

2. 『影男』(安里麻里)

Baidu IME_2016-1-6_5-27-30

この短いランニングタイムで、二重構造の夢と、それを見る現実を的確に交錯させる手腕が実に滑らかながら、その編集がこれまた鮮やか。正体不明の「影男」に壁へ押し寄せられる彼女の縦姿勢の構図から、目が覚めた次のカットでは、普通、横姿勢の構図で捉えられるであろう仰向けの寝姿勢を縦に反転させることで、カットの繋ぎ方が縦 → 縦となり、すごくシームレスに映っている。それによって、この物語内で描かれた不可解な現実への侵蝕を、受け手が極めて自然に受け取ることを可能にしている。他、画面設計も端正で見易く、鼻血の落下とティーの落下による視覚的なイメージの反復で脅かされている状況を端的に示していたり、恐怖を煽る為には聴覚への訴えで押し切っているのも「ホラー作品」としては好感だし、それ故に映画館での暗闇と音響は必須なのだろうなぁと。後背から出現する「影男」、その「影」である意義がちゃんと現れる瞬間も忘れておらず、全体的に高クオリティな佳作。


 

3. 『どろぼう』(内藤瑛亮)

Baidu IME_2016-1-6_6-33-48

果物が車輪に轢かれ、太腿に落下し、スプーンで刳り貫かれ、包丁で切断され、靴で踏み潰される。その、如何にも内藤監督の偏向によるグロテスクなイメージと音の断片がどういったグロテスクの極致へ嵌め込まれていくのだろうと期待していたのだけれど、それに関しては少々、肩透かしであったが、内藤監督が本作を手がけている前提、シャワーで汚れを洗い流すカットから溝の中の流水、そこから聞こえてくる赤ちゃんの断末魔(しかも恐らく複数の)という連想ゲームが、「流産」という着地点に結びつき、 「生活に困った子沢山の家の奥さんの様子が可笑しいという噂」をそこへそのまま接続すると、=奥さんが自ら子殺しをしているかもしれないという隣人が起こしうるアクチュアルな厭な世間話にはなっているし、「生きているけど死んでいるor死んでいるけど生きている」という子供(幽霊としても捉えられる)との対話(溝の中に落とされたのは彼なのか、それとも産まれてきた赤ん坊なのか)の断絶は余計に気味を悪くさせられる。一瞬映り込む倉庫に駐車されていたバスだとか、子供たちが被っていた謎の覆面など、画面上の細部への装飾もなんだか奇妙でグッとくる。この手の引っかかりとして挙げられる「父の不在」が設定としては引っかき傷となっていて、これは長尺であろうと成功し得そうな背景。主役の女の子を演じた萩原みのりは凛とした佇まいでこれからが楽しみ。


 

4. 『一緒に見ていた』(大畑創)

Baidu IME_2016-1-6_9-30-4

幽霊は比喩であり、人間の精神異常(混乱と焦燥)により可視化されるものであるとし、人が人と接触、もしくは衝突することで、そこにひとつの世界が生まれるように、人が幽霊と接触、もしくは衝突することもまた可能であり、そこにもまた生と死が超越された不可視なひとつの世界がありもしない情景として立ち上がってくるのであるのならば、彼のみに彼女の霊が見えていたと推測されるカット(手をひたすら振りほどくそれ)は、カメラを通した私達の眼からはその霊の手が見えなくなっていて(視聴者側には手が見えなくなっているそれによって)成立しており、彼女の死後、彼が霊として彼女を直様、見ることになったのも詰まるところ、個人たちの問題(彼女を自殺に導くことになる無視だとかセックスのトラブル)が引き起こしてしまったこととしてやはり収束されている。その問題は怨みや罪の意識や悔恨を生むことになり、前述した精神の異常へと繋がっていくのであろう。だから、幽霊を視てしまった。だから幽霊を召喚してしまった。

その点に到るまでのシーンで、ひとりでに扉が開かれるシーンがあるが、霊の仕業として処理されているので、そこで「彼女は霊ですよ」と端的に明示されており、こちらを「見てくる」霊に対する抵抗として”瞼を閉じる、開く”という繰り返しの運動(対する彼女もまたそれを繰り返すのがキーポイント)によって、彼は彼女を見ないように消し去ろうとする。しかし、彼女は彼の目の前や後ろに繰り返し現れ、やがて、肩へ接触したその手を置いたまま離さなくなる。襲うのでは無く、触れる・寄る・視るという、囁かな恐怖描写で描き切るこの膠着戦。ここでの「一緒に(何かを)見ていた」という末尾が、以降の憑依を感受させる余白の黒さで素晴らしい。演出的には片方だけ上履きを霊に履かせることにより、まだこちらの世界に未練があって、半分の足はまだこちらの世界に漬かっているということを暗示的に告げていて良いかと。補足として言っておくと、中庭(芝生のグラウンド)で、生徒が彼女の霊とぶつかった(しかも生徒が不思議そうに彼女をみていた)あれは、多分、彼の「幻視」として捉えた方が腑に落ちるし的確であろう。しかし、ちょっと笑える。いやぁ、しかし、圧倒的なのは屋敷紘子だなぁ。


 

5. 『空きチャンネル』(岩澤宏樹)

Baidu IME_2016-1-10_8-20-5

「空いているはずのチャンネル(ラジオの)から、毎晩同じ時間に、女の声が聞こえてくる。しかも、よくよく聞いてみれば、自身の厭な(憎悪に満ちた)体験談をマイクに吐き出している。」という、極めて旧都市伝説的な題材(ラジカセの型番は90年代か)に纏わる憑依の顛末を、大胆な省略と、俳優の演技に託し、沸点(飛躍のポイント)では岩澤監督が得意とする禍々しき映像表現(『心霊玉手匣』(2014)(※1)でも見せたそれ)で魅せ切るという、ラジオという聴覚的な媒体に対し、実に視覚的な一篇である。アナログ回帰が如実な現代において、「ホラージャンル」も例外では無いということは、近年の「投稿系ホラーDVD」を何本か鑑賞すれば一目瞭然なのだが、岩澤監督もまた、優れたアンテナと手腕で、現代性を解釈し、旧時代へ立ち返りながら、オリジナリティ溢れる映像へと見事に落とし込んでいる1人である。恐らく学校の帰宅途中であるそのノスタルジーの極致を超自然的なロケーションで活写したあの場面は、『心霊玉手匣4』(2015)に視たそれを思い出したりして、映像作家の魂を漂わせた。学園での一連に見た、分裂症にも似た彼の状態は、他者から疎外視されていることが予想されるが、彼を引き戻そうとする一言を交わす友人の配置が、彼の悲劇を更に沈黙させていて、そういうところの気の利かせ方も、流石。実に怪談的怪談な一本であります。

(※1)本作を演じた主人公の彼は『心霊玉手匣』の投稿者でもあり、ついでに言えば、モロちゃんを演じた新平真里亜がゲスト出演している。


 

6. 『尾けてくる』(安里麻里)

Baidu IME_2016-1-14_15-8-8

タイトルから想像し得るのは「幽体がストーカーの様に憑いてくる=尾行してくる」ということだろう。そう、全くそのとおりに、幽体が主人公の彼女を尾け、事あるごとに彼女の目の前に幽体が現出するというもの。肝心の幽体との関係はほぼ無縁にも関わらず、死後直前(首を吊る前)に恐らく「世界」への怨みの代わりに彼女が選ばれ呪われてしまったのだと妄想するしか無い位には理不尽な邂逅である(あの作業服のプロレタリアートとしての記号ぶりよ)。涙雨の様な帰り道に起きたそれは、心霊ものとしてはインパクトの欠片も無いだろうが、ここには、日常が静かに変容していくような得も言われぬリアリティの恐怖がある。学校の帰宅途中、ふと目を向けた公園、走って逃げ付いた自宅、食事支度を恐らくしているのであろう母親の姿。「帰宅」までのそれは、日常生活を送る私達にとって、知り得るものばかりだ。そこに、寂しそうでこちらを見てくる人影(彼の顔が怖すぎる)、首吊り、誰かが尾けてくるという有り得る非日常としての要素が加わることで、聞いたことのあるようなリアリティが保たれているのであろう。しかも、そのラインに立ち続けるのが、死んだはずのそれであることに怖くない訳が無いのである。そうして、トラウマとして彼女の中に侵蝕したそれは、何度も、何度も、何度でも、日常をブチ壊してくるのだ。


 

7. 『続きをしよう』(内藤瑛亮)

Baidu IME_2016-1-15_14-13-13

8人の子供たちがお墓で鬼ごっこをし始める。「祟られるぞ~、取り憑かれるぞ~」、子供たちの口からは、そう確かに聞こえただろうか。スピリチュアルの代名詞とも呼べる”お墓”という舞台で、日本ではいたってポピュラーな遊び、でもニュアンス的にはダークな印象をも持つ「鬼ごっこ」を楽しむ子供たち。はじめは、そう、「恐らく、子供たちに祟りが降りかかるのだろう」と、見えた筈だ。その予測通り、はしゃぎまわっている内に先ず1人、足を踏み外したのか、もしくは着地を失敗したのか、お墓から飛び降りた男の子が軽傷とは思えない血を膝から流し、「帰る…」とその場を後にする。「祟られたな~」と何事も無く笑っていると、また1人、墓を転倒させてしまい、女の子の足指を痛めつける。彼女もまた「もうやだ、帰る…」とその場を後にする。こうして1人、また1人と「鬼ごっこ」から辞退していくのである。流石に身の危険を感じたのか、「マジでやばいかもね…(笑)」と、言葉を漏らす子供たち。——–ここまではいいだろう——-しかしだ、次のカットで、「(じゃあ)続きをしよう」…という声がオフスクリーンから聞こえてくるカットになる。画面内に映されている子供たちの口は、勿論動いていない。ここで恐らく、オフスクリーンに何者かが居ることに気づくだろう。「うん…」と、頷きを濁しながら返事を返す子供たち。ここから明らかに、物語のトーンが変わる。そこからは1人、また1人と、何をしているのか子供たちは次々に自分の体を痛めつけ、流血を自らで、求め始める。そして、その場から早く立ち去りたいかのように、「最後の1人」になるのを何故か避けているかのように、家へ帰る理由を自らの手で作り始めるのである。では、「最後の1人(帰れない1人)」になってしまった子には何が待ち受けているのであろうか。オフスクリーンからの一瞬の登場、彼がみたあの子供こそが本当の「鬼」だったのだろうか。その明確な答えはここでは描かれていない。翌日、テーピングで処置を施された子供たちが映され、それが夢でなかったことを知らされるだけなのだ。『リアル鬼ごっこ』(2008)なんかより遥かにホラーな、残酷非情な理不尽劇。


 

8. 『どこの子』(岩澤宏樹)

Baidu IME_2016-1-23_20-29-23

教室から教室へ横移動するシークエンスの妙な動きと、教師の車が校舎の出入り口付近に丁度停車されている明らかな御都合が少し引っ掛かるが、それでもやはり、岩澤監督は真にエンターテインメントなホラー映像作家だなぁと、前述した『空きチャンネル』を経由して、つくづく思う。心胆を寒からしめる画面の「黒」が、「影」となり、「闇」となっていく映像の拡がり、そこに挿し色となる、サスペンダースカートや車の外装、点滅する電話や信号の「赤」が神経的に歪に刷り込まれ、映像に更に暗雲を漂わせていく。そして、横移動と縦移動、フィックスで硬質に画を作っていきながら、揺れる幽霊の主観と目を奪われるスロウで画を変幻させていき、霊との縦横無尽の追いかけっこで全体に動きを与えていく。恐怖のトドメは、特殊メイクで異形の怪物へと変貌した少女の挑発的な嘲笑と、『リング』を彷彿とさせる硝子越しのおどろおどろしい切迫、『心霊玉手匣4』(2015)や『心霊~パンデミック~フェイズ2』(2015)の様な無数の顔の出現という、怪異の連鎖で畳み掛け、2つの地点に分かれた教師を、1つの地点に集結させて一気に呑み込むという圧倒的な「闇」の支配感に平伏す。「光」が消えていくその絶望は確かにホラー作品として、確かに「エクセレント」であろう。教師の放蕩と、演者の子の顔の薄気味悪さも良い。


 

9. 『赤い女』(大畑創)

Baidu IME_2016-1-23_22-50-17

「その話をすると赤い女が本当にそこに現れる」、「その話を聞いた人に赤い女が付き纏う、その代わり、話をした人からは離れてく」、という、これもオカ板とかで一時、流行った様な旧都市伝説的な題材だが、暗黙の了解で形成する様な、上辺まるだしの仲間意識と言動を見せる現代の女子校生グループを物語に立脚させる大畑監督の勘の鋭さは、清々しい。何も知らない女子高生らの「リアクション」を伺う、全容を知り尽くした転校生の恐ろしい打算に、女の陰湿さを垣間見たりもするが、本当にこの眼で視てしまったことを契機に、簡単に崩壊するような友情なんて友情じゃねえよと嘲笑して吹き飛ばす一篇だったりする辺り、ダークサイドの人間側からすれば、これぐらいが丁度良い。最後、襲われる転校生を眺めながら、駆け寄ることも助けようともせず、当然の報いですよと納得している飄々とした彼女の切り返しも冴えている。まあ、今時の女子高生が花札なんて…ウクレレなんて…という意味不明な演出こそに空虚さを感じたりもしたのだけれど、何よりもこの短編が素晴らしいのは音と衝撃の連なりを、過剰ぎりぎりで魅せきる大胆な演出で最後まで持って行くところだ。開巻と同時にバスケットボールの打音に誘われながら、革のコートが擦れる音、「カツ…カツ…カツ…」という靴音に流れ、オーディオプレイヤーから流れるパーティーピーポーなミュージックを断絶する叫びを通過し、扉の開閉音と再度聞こえ出す「カツ….カツ…」の靴音、床の軋みから、革のソファを握る音、スマートフォンの「カリ…カリ」という操作音までのスリラーな連なりがもう完璧。言わずもがな、窓との衝突音と五月蝿い巻き戻し、階段を駆け上がる赤い女の騒音というインパクト性のある演出を百パーセント感じたいのであればヘッドフォン推奨。そもそも、女の子が可愛いホラー作品は絶対的に正義だから。


 

10. 『密閉』(白石晃士)

Baidu IME_2016-2-22_17-59-49

「浮気をした彼氏と別れたが、その彼氏の荷物が、まだ私の部屋に残っている、全然引き取りにこないから」という有り触れた元カップルの現状況。そこに沸々と煮え滾る彼女の苛立ちと怒りの情、(浮気をした畜生への)憎悪が、こういう顛末を迎えるとは。ある意味、あの女にとってはハッピーエンドな葬り方である。恐るべし。短時間ながらに、シンプルかつ慄然とさせる物語性を獲得しており、鏡を使いながら丁重に白のクローゼットの隙間の不穏さと黒を反復させ、クローゼットの中にはスーツケース(蓋と匣)があるという入れ子構造を用い、『貞子 VS 伽耶子』(2016)を楽しみに待たせてくれる(恐らく誰かから棄てられたのであろう)幽鬼の突飛な登場と道連れという成り立ちはエンタメホラーとして最高。鏡内に映る霊障をピンボケの状態で流し続けたり、音すらも閉じ込めるとい処理もずる賢いなあと。思い返せば、彼女がダンボール箱から取り出す工具とかもちょっと不気味だったし、ぐるぐる巻きのガムテープの雑な見た目もたまらないな。ただ少し、心残りなのは、スーツケースまるごと、お前を”棄てる”という落ちへの逆算によって”拾った”道具としたのが適当なのと、最後は「地獄に堕ちろ」とセリフで語らせるのでは無く、「地獄に堕ちろ」という表情を演者である三浦透子に託さなかった点かなあ。でも、三木康一郎による『のぞきめ』(2016)は、この凝縮した一篇と戦わなければいけないということを考えると、良い好敵手として存在し得る窃視系の佳作。

あの頃エッフェル塔の下で / あと15分で僕と、君と、この街と、お別れしなくちゃ

Baidu IME_2016-2-22_16-38-0

『そして僕は恋をする』から20年―あの冒頭、「ポールとエステルは10年以上一緒にいる。そして10年以上ふたりは気が合わない」という、謎の倦怠に疑問符を抱いた巨匠・55歳のアルノー・デプレシャンが、ポールとエステルの知られざる過去を覗き見、30歳年下の若者たちの神話に挑む、精神的には処女作の、実験作。とは言え、正統な前日譚というよりかは、一種のパラレルで展開されているので安心設計。原題「我が青春についての3つの回想」の通り、この映画は大きくチャプター(時間)を3つに分けて現在地へと進行されている。

「幼年時代」から展開された『そして僕は恋をする』をなぞる様に、本作でも中年・ポール(マチュー・アマルリック)のチャプター1〈少年時代〉から映画は展開され、ほろ苦いが楽しい思い出と記憶された「我が生涯の物語」という冒険譚・(性急な)復讐譚として書き続けた(だが頓挫した)自伝のそれを映画は反芻する。ここでの冒険というのは、母親の喪失(自殺)を経験し、鬱気味になる父親と軋轢が生じたポールの大叔母家への「ささやかな亡命」(家出)や、本作の回想の契機となる、チャプター2〈ソビエト連邦〉の「亡命の援助計画」、故郷からパリへ亡命のような移住を果たす(精神的自立を果たそうとする)チャプター3〈エステル〉での「孤児・難民のような暮らし」が含まれているのだが、その危うい冒険に付き纏う死の芳香、これが、「理想に歩みよる(夢見る)ことで引き裂かれ行く現在」というあらゆる関係性と自己像を描く本作の一貫した重要な臭いとなっている。

母のそれや、大叔母のそれ、恩師のそれや、(エステルの)祖母のそれ。そして、事情聴取中に告げられる分身のそれと、○○時代・記憶のそれ。”ある日全てが終わってしまう”度重なるその臭いが、劇中の準備不足な彼/彼女らに畏怖や悔恨、鬱や焦燥の念を抱かせているのは自明だろう。その臭いを嗅いだ事のあるポール(カンタン・ドルメール)とエステル(ルー・ロワ=ルコリネ)だからこそ、時を意識し始め、「永遠に終わらないで欲しい」と願う”ユートピア”と形容した恋愛像を物語ることを可能にしていく。そして、その恋が死んだ時は、私も死んでしまう!というエステルの軟弱さと無防備さが現れた頃には、登場シーンの力強い姿とは一転した彼女の姿が其処には存在し、『そして僕は恋をする』で描かれた「君は僕を変えた?」の始点を「手紙」という回想媒体を通して目の当たりにするだろう。

「彼女がいない人生など無意味」というロマネスクの領域ではあるものの(それがまた勿論、誰もが患う恋の病、至福に酔い痴れたある種の狂気としてユニークでもあるのだが)、皆の乙女心を鷲掴むラブリーなポイントは外さないし、モノローグとダイアローグが折り重なって、こうして赤裸裸に語られる(過ちと混乱としての浮気の回数も暴露される)青年期の彼/彼女らの「何者かになりたい」、「本当になりたい自分(たち)へ」、「例外的な何かへ」という理想像への希求と憧憬、その代価として支払われる現在を、活写する「僕は誰だろう?」というアイデンティティの話の上でのリアリズム志向の筆致は、何より達筆で美しく、過去の3つの時間と現在を艶やかに編み込む、映画的感動を押さえたプロットの構造と可視化、カメラへの眼差しは、わたしたちに過ぎ去った筈の豊かな時間をそっと与えてくれる。一応、重要なのは、ミスリードとしても機能しかねない「回想によって召還される曖昧な別人/分身である私」が再現されていることであり、その時代へ遡行するにあたって「宙づり」が明らかになる現在進行形のアイデンティティの話でもあること。ふと、地に足を付かせてくれるかもしれない良作です。

やけに多用されるアイリス(イン/アウト)の意図だけ掴めませんでした…。

ハッピーアワー / 笑ったもん勝ちの地獄で

Baidu IME_2016-2-4_7-40-40

ピクニックへ出かける摩耶ケーブルカーに乗った4人組の女性が、山上に昇り、神戸の街を見下ろそうとする。その景色は無情にも霧に覆われている。

「何や うちらの未来みたいやな」

これは、その景色を視て、毒混じりのユーモラスな発言をした彼女・純(川村りら)のふとした一言であるが、霧に思い浮かべた、今はまだ不可視な未来への不穏なイメージが映画上に不意に落とされた瞬間である。当然、私はこの映画の未来を、また彼女たち未来を、まだ何も知る由も無い筈なのに其の様に想起してしまった。しかし、その瞬時に切り返される

「女37歳の未来はめっちゃ明るいわ」

という、あかり(田中幸恵)の勇ましい発言に、不思議と笑みが自然と被さっている。ネガティブな上にポジティブが重なる。複雑な上に単純が重なる。生真面目な上にええ加減が重なる。しかし、そのシンプルな意思でいて、何とも肯定的な力強い発言に、この霧と闇で覆い被さる世界の未来へ向かう私たちが生きるコツの様なものを一瞬で提示しているような気がした。それは、この映画を観た後に一番最初に信じたくなった視界の広さへ繋がる。そして、ここで未来の「リベンジ」として交わされた、いや「とんだピクニック」となったせいで偶然、提案されたであろう、有馬温泉へ旅行へ行くという他愛も無いが心踊る約束や、”反応”へのありがたさが、どれだけ「ハッピー」な空間や時間であるかは、これから彼女たちと一緒に我々も改めて心身共に浸透していくことである。

 

前述した映画上に不意に落とされた未来への不穏なイメージは、次に、「崩れる」「倒れる」という物理的でいてサスペンスフルなイメージにバトンタッチされ、物語の全体に、彼女たちの人生に影を落としていく。重要なシーンとなるのは、身体表現ワークショップ(WS)〈重心って何だ?〉での一幕にあった、WSのゲストアーティスト・鵜飼(柴田修兵)が披露した椅子を一脚のみで自立させる技芸であろう。重さが無くなる一点を(重心と床面が垂直になる状態を)探しあて、指を離す。そうすると、椅子は見事に自立してくれるが、また指先でチョンと押すと、一瞬でその均衡と正中線は崩れるという一連。本格的なワークでは「自分の・他者の重心を探り当てる」「重心に聞く」というテーマに移り、集団で背中合わせで座り込み、そこから力を頼り合うことで、即ち特異な形でコミュニケートしながら、立ち上がることを試みたり、額を触れ合わせテレパシーを送ってみたりして、ガッチリとした、それもコネクトとか、エンゲージとかマリッジと言いたい様な、コミュニケーションの本質的なことに立ち返る。そこでの鵜飼の

「それが他人との間でできたら、もしかしたら、それってすごい幸せな時間なのかも知れない。でも重さを感じない為にかえって、気がつけば重心を見失ってしまう時がある。崩れてしまうときがある、そしたらまた重心を見付けるためにコミュニケーションをしないといけない。他人とも、自分ともね。その繰り返しなのかなって思ってます。」

という見解が、物語の暗喩として響き出す。「幸せな時間とは重さを感じない時間である」と仮定するとするならば、椅子の件で伝えたかった重さが無くなる一点とはずばり、幸せな時間のことでは無いのか。つまり、その間、私たちはこの大地/地面と垂直になる状態になり、均衡と正中線を維持し、立脚できているのだということ。しかし、気がつけば重心を見失い、家庭や社会や労働の規定、残酷で理不尽な現実や世界の重力の中で、人間は、容易く、崩れ、転落し、転倒するのだということ。「探る」「聞く」ことに始まる相手への意思による行動・コミュニケーションを繰り返さず、疎かにしたばかりに。劇中での彼/彼女らは、恐らく、その環境づくりに失敗したのだろう。「探る」ことや「聞く」ことを可能にする環境。探る隙を与えない、聞く耳を持たない記号化した表面的な(で、ていてポーカーフェイスに映る)男たちが、女たちを孤立に、孤独にしている。孤独な女たちは、紙切れの上の約束が生み出す因果のごとく、ほとんど繋がれていないと同義である関係の上で、「ハッピー」な時間とは無縁となるのである。つまるところ、幸せな時間を感じないのであれば、当然、(物語のプロセスに沿うと)彼/彼女らは、意識する前に崩れ、倒れてしまう。だから、孤独な者は自然に、その場凌ぎであろうと「孤独ではないことを錯覚させる」私を見付ける逃避へ、衝動のままに、受け入れてくれる他者を求めていってしまう。あのアバンチュールは思わず、ジョン・カサヴェテスの作品を彷彿とさせる、全て腑に落ちる適切な脚本だった。

 

更に同じくして重要である友情間の環境では、誰かを傷つける、誰かに何かを背負わせる、誰かに迷惑を掛ける、その責任と戸惑いを感じる自己との対峙による「言えなさ」で彼女たち自身が失敗している(これはアクチュアルな問題である社会の上司との関係、家庭での姑との関係にも放射する)。劇中の連鎖の始点であった純は、重心を見失う一歩手前でWSに出会い「幸せな時間」をわずかながらに確保するも、大きな支えの存在であったであろう友人・あかりとの関係に「離婚調停中」であることを秘密にしていたことを契機に大きく罅を入れてしまい、あの場に居た芙美(三原麻衣子)、桜子(菊池葉月)にも惑わせる結果となり、彼女はやがて、ある駅のホームで崩れ落ちる。その後、彼女たちは冒頭で約束した有馬温泉への旅行を無事叶え、仲直りを果たすのであるが、彼女の突然の失踪により、そこから映画の運命は(主に階段による)下方運動の連続と共に、彼女たちから「幸せな時間」を刻々と奪っていく。一度離婚を経験している故に「嘘」に敏感なあかりは再び大事なことを言ってくれずにいなくなった純を疑い、また、純とは中学の頃からの付き合いである桜子や、立場の問題を持ちかける芙美と軋轢が生じてしまう。次のシーンでは、不注意による連鎖で、あかりが階段から転げ落ちる。ドミノ倒しの様に、最初は仲睦まじいと思われた夫婦関係にも目をやると、ボロが出始めていた桜子の夫も同様に、重心を見失った結果、その後に階段で転げ落ち、しまいには出社途中に泣き崩れていることも忘れ難い。極めつけは、芙美が夜道の下る階段を経由して帰宅する朝、夫・拓也(三浦博之)に「離婚」を切り出したシーンの尻目での、「さようなら」からの床へ崩れ落ちるショットだろう。皆、霧に覆い被さる未来の闇の目前で次々に倒れて突っ伏していくのだ。

 

こうした「ハッピー」であった筈の夫婦の間に生まれる、「言えなさ」や「聞く」「探る」ことの無意識の拒絶や無関心による、2人の関係の基盤の崩れ、そして長きに渡る信頼で紡がれていた筈の集合体である友人間だからこそ失う「重心」、その問題と過ぎ去る時間の中で、映画と共に抑を考えた。抑、「幸せな時間」では無くなった時に繰り返された”日常”の中に「ハッピー」は無かったかと。ただ、それを当たり前の様に聞き逃して、見逃していなかったかと。退屈なものと切り捨てていなかったかと。桜子の言葉を繋げて借用しよう。

「目の前を通り過ぎることを無理に掴まえる、掴まえないの前に、あたしの場合、そもそも何も見てへんし、何も感じてへんのかも知れへん」

私は、この言葉に感嘆の声を漏らした。孤独からそっと、私を引き離してくれる「ハッピー」は、絶対に幾らでも「幸せな時間」と認識する外にも転がっていた筈なのだ。何でもないけれど、何でも在る時間。何でもないけれど、何でもある言葉や思いやり。ちょっとした、そう、ほんのちょっとしたこと。例えば、強いていうなら、たとえ形だけは独りである時間ですらも、その後ろには、きっと誰かがそっと寄り添ってくれているのでは無いのかということを言っておきたい。とはいえ、本当に切りがないほどにこの映画には無数の「ハッピー」の断片が鏤められている。そしてそれを貴方もきっと見て、聞いている。

 

ラストに映る、彼/彼女らは、諦念の様なものを抱えてこれから、霧の中を彷徨って生きていく地獄巡りの人としては決して捉えていない様に見える。桜子の姑・みつ(福永祥子)の言葉である

「結婚なんて 進むも地獄 退くも地獄よ。同じ地獄なら、進んでみるんがええな。」

という回答を敢えて頼りにするなら、その地獄を肯定的に受け入れる女性たちがそこに慎ましく気高く息をしている様だ。果たして、彼/彼女らは、その謝罪や自覚、反省が下した猶予やチャンスをものにして、漂白された愛を再生させることが出来るのか。その地獄の先に、何を新たに欲し始めるのか。何かが手に入ることは必ずしも約束されていないとしても、戦うことを決心し、その権利を主張し始めた彼女らの未来についても、映画は、まだ知る由も無いものなので決して語らない。しかし、確かに未来は、しっかりと切り開かれている。少なからず、”私”の未来は明るい未来となることを諦めない彼女らの未来への眼差し、その視界は開かれていると頑に信じていたい。霧の晴れた日、海の先に呟いたあの約束は、彼女のもとに届いているだろうか。それが叶う日を待ちわびる「幸せな時間」はずっと、ずっとこうして当たり前のように流れている。どうだ、余りに美しい地獄だろ、ここは。

 


 

監督 濱口竜介
『なみのおと』『不気味なものの肌に触れる』

田中幸恵 菊池葉月 三原麻衣子 川村りら
申芳夫 三浦博之 謝花喜天 柴田修兵 出村弘美 坂庄基 久貝亜美 田辺泰信 渋谷采郁 福永祥子 伊藤勇一郎 殿井歩 椎橋怜奈

製作総指揮:原田将、徳山勝巳 プロデューサー:高田聡、岡本英之、野原位 脚本:はたのこうぼう(濱口竜介、野原位、高橋知由) 撮影:北川喜雄 録音:松野泉 照明:秋山恵二郎助監督:斗内秀和、高野徹 音楽:阿部海太郎 製作・配給:神戸ワークショップシネマプロジェクト(NEOPA,fictive) 宣伝:佐々木瑠郁 2015 / 日本 / カラー/ 317分 / 16:9 / HD

 

素晴らしい全てに乾杯。ありがとう、ハッピーでした。

フリーキッチン / ボーイ・ミーツ・ガール・ミートボール

Baidu IME_2016-1-26_15-17-47

人間が人間の肉を食す行為・習慣のことを指す「カニバリズム」自体が、宗教儀礼 =

信仰対象とのかかわり合いを集団的規模で、一定の形式に従って行う宗教的行為。礼拝・祈祷(きとう)など種々の儀式を含む。

である様に、劇中内の母子間で行われるそれもまた「かかわり合い」を目的とした儀式として映る。ここでの「かかわり合い」は、母親・キョウコ(延増静美)の愛情表現として変換されているのだが、遡ると、劇中上(序盤で)明かされる、実の父親とその愛人の肉を食したという主人公・ミツオ(森田桐矢)の幼少期以降を形成するトラウマ級のエピソードの前後で補完された「嫌いな食べ物を(しかも料理下手であるのにも関わらず)美味しく食べてくれる母親としての喜び」が一種、息子と一定的に繋がることを錯覚させていることによって、生まれたのが秘かな愛情表現としての「カニバリズム」である(キョウコからは人肉であることは明かされておらず、ミツオ自身が後にそれは何となく人肉であることに気づいている)。キョウコは、その日以来、ミツオの喜ぶ姿を見たいが為に、食卓に人肉料理を並べ続けた。幼き頃に、(キョウコには冷たい態度であるが、ミツオには気遣いをしていた様に思える)父親の喪失経験を果たし、血と臓物と殺人の光景が脳に刷り込まれているミツオは、こうして10年来に渡る母親との「狂った日常」の只中を過ごすことになり、想像し得ない欠落を抱え高校生の現在にまで成長していくのである。ここで、現実問題的に考えて「10年来」もの期間に渡る母親の殺人が、何故見過ごされ、彼女を野放しにさせているのかという疑問(=つまり、隣人外部の存在がほぼ遮断されている劇中の背景)が思い浮かぶ方が大半を占めるのだろうけれども、前前述した回想エピソードにて、カメラ目線となるキョウコが「第四の壁」を破り漫画原作すらある「寓話」であることを端的に示しているからして、その指摘は届かないだろう。(ちなみに、金銭問題としては、母親が歯科医院の主任であることが知らされ、軽やかに解決されている。)

心的外傷によって、恐らく内向的となり、現在では、仲の良かった幼馴染みにまで虐め(「御坊ちゃま」として知られる彼は財布として扱い)を受けてしまうミツオ。反抗的な態度を持たない彼は唯一の友人であろう「ペット」のイグアナ(アゴヒゲ系?だったか)をカーテンに覆われた自室で飼って癒され、趣味であるデッサンで、日常に安らぎを保っている。虐めについては認知しているキョウコであるが、ここで兎や角口出ししない微々たる放任主義にも関わらず、息子を「ペット」かの様に扱っている所に注目すべきだろう。これは、餌(イチゴや人肉シチュー)を口元に与えるイメージの連なりによって醸成されるのだが、物語としては「ペットの様に飼いならされる息子」と「主人である母親」との構図をもって、「かかわり合い」が肥大化・逸脱化しゆく、『サイコ』的な母子間の洗脳/束縛問題と母子同調の話を引き起こしていく。携帯を与えない支配下のもと、10年来に渡る異常な日常を自覚的に経験しているミツオは、母親にも反抗的な態度を持てずに、あらゆることを当たり前に受け流してしまっているのも、また味噌だろう。ミツオには、精神的に克服しなければいけない母親が存在し、物語的には彼の解放が求められるプロットとして構成されていることを念頭に、言ってしまえば、”通過儀礼”が一種、ひとつの側面の暫定的なゴールとなって、物語は推進していくこととなる。それは一種、高校時代的な「母離れ」であり、寓話的な「母殺し」と言える。グロテスクな世界観とスプラッターな描写、映画はその様相から、更に化学反応を試みる題材を採用する。それがまさかの「ボーイ・ミーツ・ガール」である。

いじめっ子を避けて通った迂回路で、偶然通り過ぎるペットショップ(爬虫類を多く扱っている?)にて、イグアナを愛する女性店員・カナ(大貫真代)との邂逅を果たすミツオは、また偶然に彼女も同じくして「絵」を愛することを知る。虐めを受けて、ずぶぬれだったミツオに、そっとハンカチを手渡すシーンは、運命的な出会いだと誰もが錯覚せざるを得ない、まさに「ボーイ・ミーツ・ガール」な光のシーンだ。趣味の合ったふたりは、何回かの再会を果たし、若い純愛を育ませていく。公園デートで食べた手作り弁当の中に入っていた「ミートボール」なんかは、何年振りかの「普通の肉の味」という彼を感動させる程であった。だがしかし、恋は恐ろしい。いや、習慣というのは恐ろしいというべきか。カナのことを好きになってしまったミツオは、カナのことを次第に「食べちゃいたくなる位に好き」になってしまうのである。食人生活を余儀なくされていたその束縛の日常で、知らず知らず彼は、母親に洗脳され、同調してしまっていたのだ。こうして、カナのことを、息子の”大好物”だとキョウコが認識した時、彼女の愛情表現は、その通りのプロセスを辿っていく。異常な愛であるタブーと純愛のミラクルの融合に思わず、こちらとしては、笑いがこみ上げながら、望外の異変を見るだろう。眠り粉が調合されたであろうドリンクを知らず知らずに飲んでしまったミツオは、キョウコの手によって文字通り縄による束縛状態となり、”子供から成長する上で”大切だと主張する屠殺現場を実際に見学する直前に追いつめられる。浴槽には幼馴染みのバラバラの死体、隣には眠らされたカナの姿。「食べちゃいたくなる位に好き」な彼女の絶体絶命の時、映画は「ボーイ・ミーツ・ガール」の願いを叶えながら、前述した「通過儀礼」の儀式を始める。

「カニバリズム」を扱いながら本作は、見間違わないで欲しいが、究極のブラック・コメディだ。「人肉」に対するレポートにはじまる、二重の意味を含む着地、そして暗転後のまさかの、まさかのラスト。あの極致に「寓話」の魂が宿っているが、個人的に戦慄しつつ引き笑いを起こしたのがペットショップで餌として購入しようとするコオロギについての一瞬の会話である。「コオロギが50匹くらい居なくなろうと大丈夫だよ〜」というそれ。人間が日常的に殺されている背景がある故、ここでは確実に「人間が1人、2人、3人、いや例え50人、何十人殺され、居なくなろうたって大丈夫だよ〜」ということを連想させるような悪魔的に意味深さを含んでいる。良く聞けば、前述した現実問題的に考えると浮かび上がる疑問への回答でもあるのでは無いか。

******

端正な画作り、心胆を寒からしめる照明、黙祷かの様なフィックスの沈黙、屠殺現場の完璧な長廻し(と恐る恐る忍び寄るカメラワークの妙)、畏怖におののくカメラの過剰/微細な手ブレ、撮影・構図においては開巻と同時になかなかエッジーなスタイルを魅せており、細部の演出はどれもこれも心を掴んでくる。そして、何よりウォン・チーハンと肩を並べる狂気を演じた、延増静美という才能がここで生きている/死んでいる喜びには敵わない。2013年製作の作品ですが、とりあえずは、1月ベストでオススメな作品。にしても、風呂が良いデザインだ。